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Preocupaciones / Consulta
#1
  • しつこくて困ってます
  • 2005/10/20 11:24

びびなびサイト内にも色々と情報が載っているようですが、去年もやっていたアズサの方で行われる、日本人留学生対象という謳い文句でやっているイベント。そのリーダー格の人からしょっちゅう電話がかかってきてちょっと困っています。
最初はオモシロそうと思って興味を示したんだけど、話を聞いていると最終的には教会とかに誘われていることが分かってきて、ちょっと怖くなってきています。べつに教会とか宗教には嫌なイメージはないのですが、あんなにがっついて誘われると・・・。
でも電話に出ないと長いメッセージが残されるし、(しかも結構何を言っているかわからないときが多い)その後も何度もかかってくる。だからと言ってハッキリやめてとも言いづらい・・・。こんな時、みなさんならどうしますか?教えてください。

#72
  • とっくり
  • 2005/10/29 (Sat) 17:13
  • Informe

#60コバルトさん
僕自身は本来の仏教は魂を認めないと言うか、魂と言う概念が業を生む事に繋がるとされている、と思っています。無我の境地という言葉はそういう事だと。魂や我(ego)があるから欲が生まれる。つまり、それを無くす事が悟りだと。自分が釈迦の生まれ変わりだ、などと言う新興宗教を論破するネックになる部分はここだと思います。仏陀は煩悩を捨て涅槃の境地に入ったのだから、もはや生まれ変わる事は無い、と言うのが本来の仏教だと考えます。あと、キリストの生まれ変わりとか言ってる人達、あり得ないですよね。彼は十字架で死んで、三日後に復活して神のもとに行った。それで最後の審判の日にもう一度戻ってくるんだから。あと、仏教にはもともと極楽浄土という概念があったかどうかも疑わしいです。でもこれは僕の考え方ですから、あんま意味ないですよね。すいません。ただしゃべりたかっただけかも。あと、これも前にコバルトさんがおっしゃってた「宗教とは何か?」によると思うんですけど、僕は無宗教ってあり得るのか疑問です。宗教に対するスタンスはコバルトさんと一緒だと思います。

#73
  • コバルト
  • 2005/10/29 (Sat) 17:34
  • Informe

#72 とっくりさん、ありがとう。
『僕は無宗教ってあり得るのか疑問です』
 僕は無宗教主義ですが、有神仏論です。つまり、現存の法人組織、団体としての宗教のみを宗教と呼ぶなら無宗教はあると思いますが、人はそれぞれに多かれ少なかれ生きる上での土台になっている信条や心の声、規範、倫理観をもっています。その中には「神様、仏様」も含まれるでしょう。それを宗教と呼ぶなら、無宗教は有り得ないかもしれませんね。

 このトピの皆さんのレスの中にも、「無宗教」としながらも、しっかりとした理性をお持ちの方が多く見られます。うれしく思います。

#75
  • momota
  • 2005/10/29 (Sat) 19:40
  • Informe

コバルトさん
★世間一般で少々履き違えているように思えることがあるのですが、「死」についての恐怖は、本人にしてみれば、恐いのは死後ではなく、死ぬ瞬間、死ぬということですよね。病気、事故、殺人等々。しかし自分以外から見た自分の「死」で恐いのは、死に方よりも、死んでいなくなってしまうこと。momotaさんも「自分の死」に対する恐れは無いといっても、目の前にナイフを突き付けられたり、断崖の今にも落ちそうな場所にひとり立たされたりすれば恐いでしょう?だから死が訪れるならポックリと逝くことを人は望むわけで。

コバルトさんのお返事を読んで改めて考えました。やはり私は「自分の死(の瞬間)」は怖くないと思います。「死後」については机上の推論だと思っていますから、怖いも何もないです。ナイフを突きつけられたり、崖から落ちたり、「怖い(避けたい)」のは死んで無になることではなく、それによって引き起こされる「痛み・苦しみ」だと思います。器械体操をやっていたのでそれなりにいろんな怪我もしたので、普通の人より身体的な痛みには強い方だと思いますが、それでもやはり痛いのは嫌です。練習で使う競技用トランポリンから失敗して落下する時も落ちながら「一番痛くない着地しなきゃ」と必死に考えます。

医学が発展し、脳死や植物状態など、以前なら死んでいた人も死なない世の中になって、「生と死の境」って何だろう?という論議が起こっています。脳死を死とするか(さらに大脳や小脳の死を死とするか、脳幹の死を死とするか)、心臓死を死とするか。脳死で心臓が止まってもまだ細胞は生きていて髪の毛も伸びることもあるので、細胞が全て朽ち果てて死とするか。どれも「後戻りできない・回復しない」状態という意味では同じですが。現代では「死」が今までに無く曖昧になっています。

ちょっとグロい話になりますが、上野正彦氏によると、飛び降り自殺は空中で意識を失って地面に衝突した瞬間に痛みを感じない人が半分ぐらいと気を失わず衝突の瞬間またはその後もしばらく意識がある人が半分ぐらい。ナイフで刺された場合、動脈をすっぱり切られ大量失血すると意識が遠のいて痛みの感覚が無い場合と、筋肉や神経を刺され痛みを感じる場合があるそうです。ちなみに一番苦しい死に方は焼死(一酸化炭素中毒死を除く)と餓死だそうです。毒殺も致死量に足りないと苦しい思いをするそうですが。私の経験では練習中に骨折したり脱臼したりしましたが、その瞬間って痛みが一瞬無いんですよね。何が起こったのかわからない、という感じ。怪我して2−3秒後、骨が折れたり関節が外れたりしているのを視覚で認識してはじめて痛みを感じていたように思います。なので、そのまま怪我と同時に死んでたら痛くないのかな??ぽっくりと。なんて思ってみたり。しつこいですが養老氏がこんな話をしています。「樹海で首吊り自殺を図った男性が、首を吊ろうとした所ロープが切れかなりの高さから落ち大腿部骨折した。たまたま恒例の樹海の見回り(?)に来ていた人達に見つけられ救助されて一言『痛くて死ぬかと思った』。」

怪我であれ病気であれ老衰であれ、死ぬ瞬間は意識も遠のいて神経も痛みを脳に伝えなくなるので怖くないと思いますが、死ぬような大怪我をしてもすぐ死ねず、生きながら痛みを感じ続けるのは避けたいですね。でも痛みや恐怖を感じるのは生きている証ですからね。それは「死が怖い」のとは違う気がします。

カトリックの友達と宗教の話になりました。信じている宗教は無いと言ったら驚いて「じゃあ、あなたのVALUE価値観はどこから来るの?宗教じゃないにしろ何か信じているはずでしょ?」と言われました。それまでは「宗教団体に所属していない=無宗教」という感覚だったので、そう聞かれた時には「確かに私の価値観や倫理観や世界観はどこから来たのだろう?」と疑問に思いました。

「自分の信じているもの」は、キリスト教、仏教、儒教、神道などとはっきり分類することが出来なくても、何かしら生きてきた過程で育ってきた社会の倫理や価値観が強く影響して、誰でも持っていると思います。「倫理・価値観・世界観=宗教」の人はそれが周りとも共有できて、絆というか団体意識が生まれていますが、私のように価値観や世界観が様々な要素(それには儒教や神道や先祖崇拝の一部も含まれるのでしょうが)から成り立っていると特別に他人と共有することも無いだけであって、「何も信じていない」とは違うのかな?と思います。

家族や親戚が皆キリスト教徒である友達はたまたまそれがキリスト教というものに集約されていて、私の場合は一つの名前が付けられた思想に集約されていないだけであって、他の宗教が正しいか正しくないかと、とやかく言っているくせに、自分の倫理と価値観を「正しい」とも「本当に正しいのか?」とも疑問を抱いて自問したことはあまりない気がします。

#76
  • コバルト
  • 2005/10/29 (Sat) 19:51
  • Informe

#74 momotaさん、まいどです。
 んー、誤解されているというか、うまく伝わっていませんね。momotaさんは、僕が書いたことを噛み砕いて繰り返しているに過ぎず、反論されていません。

『ナイフを突きつけられたりがけから落ちたり、「怖い(避けたい)」のは死んで無になることではなく、それによって引き起こされる「痛み」だと思います』
★そうです。それが僕の書いた「死」ではない「死ぬこと」です。

『上野正彦氏によると、飛び降り自殺は空中で意識を失って地面に衝突した瞬間に痛みを感じない人が半分ぐらいと気を失わず衝突の瞬間またはその後もしばらく意識がある人が半分ぐらい。ナイフで刺された場合、動脈をすっぱり切られ大量失血すると意識が遠のいて痛みの感覚が無い場合と筋肉や神経を刺され痛みを感じる場合があるそうです』
★死ぬ瞬間に痛みがどうあるかは問題ではありません。

『怪我であれ病気であれ老衰であれ、死ぬ瞬間は意識も遠のいて神経も痛みを脳に伝えなくなるので怖くないと思いますが、死ぬような大怪我をしてもすぐ死ねず、生きながら痛みを感じ続けるのは嫌です。でも痛みを感じるのは生きている証ですからね』
★どんな死にかたが痛いとか、死ぬよりも生き延びるほうがつらいかということでもないんです。
 文字だけで伝えるのは本当に難しいですね。笑
 つまり、「死んでいる状態」と「死ぬこと」を区別したほうがいいと書きました。
 そしてまた「死ぬこと」とは、実際にその経験をした人はすでに「死んでいる」わけで、それを指しているのではなく、死を経験したことがない「生きているもの」にとって、未経験の死が恐いということ。死んでいる状態が恐いというのではなく「死ぬこと」が恐いだけだと思います。だからmomotaさんが死を恐れないのは、僕と同じく死んでいる状態が恐くないだけであり、「死ぬこと」はやはり恐いものなんです。それを痛いというかは自由ですが、同じ意味で書きました。難しい!

『カトリックの友達と宗教の話になりました。信じている宗教は無いと言ったら驚いて「じゃあ、あなたのVALUE価値観はどこから来るの?宗教じゃないにしろ何か信じているはずでしょ?」と言われました』
★宗教をもってしか価値観を見出せないという方がおかしいです。よく、日本人がお寺と神社と教会に自由に行くことを西洋人が不思議に感じるそうですが、「〜でなければいけない」とする西洋人の頭の堅さが不思議です。ヨーロッパにせよ、アメリカにせよ、こんなにいろんな文化が交流しているというのに。

『「確かに私の価値観や倫理観はどこから来たのだろう?」と疑問に思いました。キリスト教、仏教、儒教、神道とはっきり区分することが出来なくても、育った過程で育ってきた社会の倫理や価値観が強く影響していると思います』
★そうです。言わばチャンポン。雑種とでもいいましょうか。動物だって純血より雑種の方が強いでしょ?同じですよ。枠にははめられて「これが正しい!これが正しい!」と子供の頃から育てられるのではなく、いろんなものを見聞きして学んで心に刻んで育ってきたあなたの方がよほど柔軟で強い。柳の枝のように。

『「倫理・価値観=宗教」の人はそれが周りとも共有でき絆というか団体意識が生まれ、私のように様々な価値観(それには儒教や新党の一部も含まれるのでしょうが)から成り立っていると特に他人と共有することも無いだけであって、何も信じていないわけではないのかな?と思います』
★あなたと1から100までまったく同じ価値観の人なんていません。だからといって、誰とも絆が持てないなんてことではない。決してない。いろいろな人と響きあう部分があるから人生の喜びがあります。それが相手によって多いか少ないか、深いか浅いかだけのことです。まったく同じ価値観(宗教)を持って、聖典を読み合いながら「そうですね」「ええそうですね」なんて微笑みあってるほうが、気持ち悪いですよ!

『私の場合は一つの名前が付けられた思想に集約されていないだけであって、他の宗教が正しいか正しくないかと、とやかく言っているくせに、自分の倫理と価値観を「本当に正しいのか?」と疑問を抱いて自問したことはあまりない気がします』
★改めて疑問を抱いたことはないかもしれませんが、今までの人生の中で、その瞬間瞬間に築いてきたものがあると思います。それは気付きであったり、反省であったり、軌道修正であったり。その道程があってこその現在のmomota式価値観でしょう。

#77
  • momota
  • 2005/10/29 (Sat) 20:40
  • Informe

コバルトさん
反論するつもりはないんですよ。というよりコバルトさんのコメントを元に自分なりに死を想像してみたらあんな書き込みになりました。そうですねー。言葉で説明するのは難しいですね。「死ぬこと」って「生と死の境が曖昧」ということでも話しましたが、いつからが「死ぬこと」なんでしょう?

『極論』を言えば生まれた時から日々確実に死に近づいています。いつ死ぬのかもどんな死に方をするのかもわからないので、今の私には「怖がりようが無い」です。明日事故で死ぬ可能性は0ではないけど、起こるとも限らないので怖くは無い。(精神病の一つに起こりうる全ての悪いことに怯えて一歩も家から出られない、という人もいますが・・・)

コバルトさんの仰るのは、ナイフを突きつけられたりというのは「もうすぐ死ぬのかな」と「死を高い確率で近い未来に起こると実感した時」という意味だと理解しています。(それともまた解釈を勘違いしてますかね?)

ふと思い出したのですが、数年前に97歳で亡くなった祖父と亡くなる数ヶ月前に話をしました。祖父は老衰で死ぬその日までいたって元気だったのですが、「いつ死んでもおかしくないから、死が怖いと思った事は無い」と言っていました。それより毎日朝目が覚めるたび「今日もまだ生きとった・・・今日も一日頑張るか・・・」と思っていたそうです。私やコバルトさんのように今のところすぐ死ぬ予定の無い人達(?)は「自分は今日(または近い未来に)はまだ死なない」と思っているから、「予想外な死に直面すると怖い」と思うのではないでしょうか。

上手く言葉に出来ませんが、ナイフの例も崖から落ちる話も、「身体的痛みや苦痛による恐怖」は痛みがどんなものか知っているので「怖さ」は解りますが、どんなものかも解らない「死ぬこと」に直面した時、「怖い」と思うかどうかすら想像する事ができません。つまり「未経験の死が怖い」という感覚がありません。「知らないから怖い」という感覚も解らなくもないですが、ちゃんと死を経験できるのは一回きりで、「痛み・苦痛」が予想できるのと違って「死ぬこと」は想像すらできません。大怪我して死に損なったことは何度かありましたけど、実際にまだ死んでないのでそれとは違うわけですよね???

祖父の生死観にも影響されているのかも知れません。否応無しに今生きている以上必ずいつか私にも死は訪れます。日々死に一歩ずつ近づいてます。でも怖いと思わないのはなぜでしょう?痛みや苦しみが問題でないのなら、どうして死ぬその瞬間だけを想像して怖がるのか、どうして日々死に近づいていることは怖くないのか解りません。

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