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「あおもり歴史トリビア」第600号(令和6年5月10日配信)

「あおもり歴史トリビア」第600号(令和6年5月10日配信)

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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
明治21年(1888)9月、東津軽郡油川村(現青森市)と北津軽郡飯詰村(現五所川原市)を結ぶ新道が開通しました。ただ、明治25年の瀬熊三郎『油川町誌』は明治21年に「新道ヲ造ル」と記しているものの、昭和3年(1928)の西田源蔵『油川町誌』は明治20年11月6日に「飯詰新道落成式を挙行す」と記しています。ふたりの見解が異なるのはどうしてなのでしょうか。
その答えは明治22年3月26日付の「官報」第1718号にありました。これによると、新道の開削は東・北両津軽郡それぞれの負担分があり、東津軽郡の分は同20年11月に落成し、一方北津軽郡の分は着工後に工事の中断があって、明治21年9月に落成したといいます。西田説は東津軽郡の負担分の落成をいい、大瀬説は新道の全通をいうのでしょう。

さてつぎに、この道路が両村にとってなぜ必要だったのかというところに目を向けてみましょう。明治21年の行政史料によれば、油川村とその周辺は「近来農産ト云フ(ママ)商業ト云ヒ皆不振ノ姿ニ傾キタリ」(『明治二十一年度 会議書類綴』)といいます。同時代を生きた大瀬もこれを認め、原因を明治4年に開通した石神野新道に求めています。
藩政時代、新城村方面から青森町に出るルートは油川村を経由していたのですが、油川村を経ずして青森町へ通じるルートとして石神野新道ができました。しかも、青森町への距離が短くなったため、新道が使われるようになり油川村への物資、とくに米の流通が激減し経済的に大打撃を蒙ったため、その打開策として「北郡ノ米穀貨物ヲ当邑ニ輸シ、以テ一村ノ利益ヲ謀ラントス」と大瀬はいいます。

一方、飯詰村は『五所川原市史』資料編3上巻に関連史料が翻刻されています。それによれば、北津軽郡では「青港」=青森港に出るルートが欲しかったのです。もっともそれまでまったくなかった訳ではなく、七段坂という難所を経由する「遠回農商其不便」を囲うルートを使うしかなく、その不便さゆえに「農商交通ノ道発達ナラサル」状況に陥っていました。そこで考えられたのが、飯詰村から「東ノ方山沢ヲ経テ」油川村に出るルートでした。
このルートの開削は明治6年頃から一部の人によって企画されていましたが、実現に向けて動き出したのは明治18年末からのことであったようです。

油川村・飯詰村それぞれの思惑のもとに開削された新道は、その後継続的な利用がなかったものの、昭和30年〜40年代にかけて材木輸送の道路として活用され、昭和52年のあすなろ国体では自転車競技のコースに指定され、改めて道路整備がなされたといいます(以上、木村愼一『油川町の歴史』)。




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青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp

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