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「あおもり歴史トリビア」第591号(令和6年3月1日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今回は弘前藩初代藩主津軽(大浦)為信の遺言について取り上げます。
青森市制施行90周年を記念して平成元年(1989)に発刊された『青森市の歴史』(青森市発行)によれば、2代藩主信枚(のぶひら)は、父為信の遺命(遺言)である、「外ヶ浜への築城」を果たそうとしていたといいます。そして、その目的は「南部氏への備えとして、外ヶ浜に防衛の拠点」を作るものでした。ところが、元和元年(1615)に幕府の一国一城令により築城は見送られ「外ヶ浜に港を開くことにし」、ここに港町・青森が誕生することになるのです。
つまり、青森の町づくりはそもそも為信の遺言である「外ヶ浜への築城」に端を発しているというのです。為信が亡くなったのは慶長12年(1607)12月5日のことで、一方青森の町づくりが始まったのは寛永初年ですから、遺言は20年近く放っておかれることになります。
そもそも、為信はそのような言葉を遺したのでしょうか。すくなくとも、弘前藩の正史「津軽一統志」にはそうした叙述はありません。
じつは、昭和31年(1956)発刊の『青森市史』第2巻港湾編(上)(青森市発行)にこれを匂わす叙述があります。かなり長い文章なのでかいつまんでいいますと、津軽独立後、為信は妙見堂(現在の大星神社)付近で南部氏に備えるための築城を命じるのですが、その場に信枚の姿はありません。そして、亡くなる直前、枕元に信枚を呼びかねて命じていた築城に関して、場所を変更することを言い遺したというのです。
これによれば、為信は築城ではなく、築城の場所を変更するよう遺言したのです。しかも、築城を命じたのは亡くなる15年以上も前と想定されます。ですから、築城の命令は都合35年も放っておかれたことになります。そしてこの間、南部氏からの軍事的侵攻を受けたとする記録もありません。
『青森市史』第2巻港湾編(上)の叙述には典拠が示されていないので、筆者が何を根拠に筆を執ったのかが分かりません。ところが、この話に極めて類似していて17世紀の中頃に書かれたとみられる記録が弘前市立弘前図書館に所蔵されています(「青森旧記之写・堂舎建立記」)。
この記録によると、為信の遺言とされる築城場所の変更は信枚の発言であることが分かります。また、築城の命令も京都で為信から信枚に伝えらえたとあるだけです。ですから、青森の町づくりの発端となる築城の「遺言」は、考え直してみる余地があるのです。
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