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「あおもり歴史トリビア」第629号(令和6年11月27日配信)

「あおもり歴史トリビア」第629号(令和6年11月29日配信)

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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。文化遺産課の石戸谷です。
早いもので、今年も残すところ一か月となりました。今回は、正月のお供えである「ミタマメシ(御魂飯)」の風習について紹介したいと思います。

かつて正月は、祖霊のミタマ(御魂)が子孫の元を訪れる時期とも考えられていました。その際の供物が、ご飯を握って作ったミタマメシというものです。東日本を中心に分布していましたが、今日ではほとんど見られなくなったようです。作る数は、地域や家によって違いがありますが、月の数(平年は12個、うるう年は13個)とするところが多く、これに箸を1本ずつ立てて仏壇や神棚に供えました。

青森県内の事例としては、南部地方の五戸町では、ミタマママといって、年取り(大晦日のこと)に菱形に切った白餅と赤餅の上に握り飯を一つずつのせたものを16個作って、箸を1本ずつ立てて仏様に供えました(能田多代子『みちのくの民俗』)。
下北地方の東通村やむつ市周辺では、ミタマメシやニダマメシなどといって、年取りの晩に重箱に入れた握り飯を仏壇に供えました(『青森県史』民俗編資料下北)。
津軽地方の黒石市石名坂地区では、ミダマママという握り飯をお膳に載せて、それに箸を立てて仏様に供えました(『青森県史』民俗編資料津軽)。また、さらに古い時代では、幕末の安政3年(1856)に弘前の武士が記録した「私家年中躾帳」に、12月の晦に「身(み)玉の飯」9つに箸を1本ずつ立てて仏前に供え、4日の朝に下ろすことが記されています。

青森市内の事例を『青森市史叢書』から見てみましょう。
奥内地区では、ニダメシといって、大正月と小正月に茶碗に飯を盛って、箸を立てました。久栗坂地区では、大晦日に握り飯12個を用意し、箸を立てて仏壇に供えましたが、終戦の頃には途絶えてしまったようです。合子沢地区では、昭和初期まで大晦日に四角に切った12個の餅の上にニダマメシという握り飯をのせて、箸を立てて仏壇に供えました。3日または5日に下ろし、ワラツトに入れて軒下に下げて凍みらせ、3月頃に下して食べたといいます。横内地区では、大晦日に仏壇に供えたミタマメシを7日に下ろして粥にして食べました。西田沢地区では、小正月にどんぶり飯に箸2本を立てて、仏壇に供えました。
同じ市内でも呼び名や供え方に相違がみられますが、南部地方や下北地方との類似性が看て取れるのは興味深いですね。

さて、歳末から正月にかけて亡き人の御魂を祀ることは、古典文学でも散見されます。例えば平安時代の歌人 和泉式部は、「師走の晦の夜」として、「なき人の 来る夜と聞けど 君もなし わが住む里や 魂なきの里」(岩波文庫『和泉式部集・和泉式部続集』)と詠んでいます。
その後、鎌倉時代になると、吉田兼好は大晦日に「なき人の来る夜とて魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方には猶することにてありりこそ、あはれなりしか」(『徒然草』19段)と、京都周辺では廃れたが、東国にその風習が残っていることを記しています。

ミタマメシは、同時季の「お年玉」の風習とともに、日本人の「たま=玉=魂」観念に基づいた行事であったと考えられています。




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青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp

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