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หัวข้อประเด็น (Topic)

วิวินาวิ ลอสแอนเจลิส
1971年アメリカ入国

สนทนาฟรี
#1

このびびなび利用者は年齢的読者は少ないとも思われましたが、、、

1971年アメリカ入国者との友好を考えています。

当方は、1971年春の入国で『大阪三井商船のアルゼンチナ丸』でした。

その後、

YMCA Hollywood
New York Hotel(Little Tokyo)
Fellowship house
Cambria(? ケンブリアAdjust school)

等々に縁のある方との親睦を再現したいと願っています。

多くの方々からの連絡を待ちます。 よろしく。

#115

#98 小言おやじのお説教かね!
楽しく読んでたのに急に興ざめしてしまった。

#114

又、脱線です。 :-)

外の世界が広く開けた1967年のビートルズ来日は私の人生での最大の転機でした。(その少し前、学校をサボって名古屋までヤア―ヤア―ヤア―(A hard days night)の映画をこっそり見に行った事はいつまでも忘れもしません)
最近マタマタお蔵入りしていた音源を掘り起こしビジネスネタにした。(動画参照)
http://www.youtube.com/watch?v=HLONr5IoIt0&list=PL52971DB13EE20C8E
世に出る少し前の音源ですが、^^自分勝手に我々の音の方が???と思えます。
しかし、彼らのシンプルな英語と素晴らしいハーモニーは衝撃的なインパクトを与えてくれました。
我々も彼らのモテモテを真似したく、必至にコピーしようとしましたが、、、

アメリカ出発前のかけがえない一ページでしたね。:-)

#116

それから4年後、、、、:-)

1972年末に一度アメリカを離れ、75年初めに再上陸したんですが、、、、、

最初に正式な食(?)についたのが旅行業界で10年間続けました。
この期間もさまざまな思い出は詰っていますが、その時の社長さんがブログで私のその当時の大失態を日記にされています。

いまでもそのは死ぬほど恥ずかしい(大げさか?)なものです。:-)

そのリンク(文才があり中々の筆力です)

http://blogs.yahoo.co.jp/honyakuusa/archive/2008/07/10

#117

chichi1234さん、ぶらじる丸さん
私めの余計な一言、ポジティブに受けとってくださって良かった!さすがです。
もう私の言った事気にしないで、自由に堂々と書いてください。すいませんでした。
#115 親父じゃなくて済みません。(女です)

#119

前を見るようなガラじゃない、後ろを向くようなガラじゃない、よそ見してたら泣きをみた。

振り返ればはるか彼方に故郷が見える。

ちょっぴり寂しくて故郷を振りかえってもそこにはただ風が吹いているだけ。

もう戻って来ないあの楽しかった日々。

#118

今後もここで皆が気持ち良い時間を過ごせるように願っています。

こんな感じ=> http://www.youtube.com/watch?v=uPHmsEoLsL0&feature=player_embedded

#120

#119さん。その退廃的な投げやり心情の歌と寂しい歌が日本で流行ました。私にはふりかえれば、幸いにして我が恩師、犬童球渓先生を輩出した美しい、暖かいふるさとがあります。人生半ばを過ぎると、私は器が小さいので、私と同世代の他人の人生は如何だったか気になります。誰かの言葉で(寅次郎先生かな?)、ひとの幸福、運、チャンスは、それぞれの人に、平等に回ってくる、と聞いたか、読みました。社会経験薄い、年軽な未熟者だった私が、過去に知り合った人。仕事や遊びで関係した人に私の言動で不快な感情を与えたのではないか、その人を利用し、感謝の表現を欠いたのでは等と想い起こすと、自責の念にかられます。お世話になったあの人たち。

ばってんが、今からでもその人たち対して、感謝の行動と表現はできると思込でいます。1970年代、行かなくても良い、野蛮な国(ベトナム戦争の影響)アメリカへ出発の日、母ちゃんが父に内緒でゼン(金)をくれませんませんでしたか? きれいな姉さんと、思ったより可愛い妹が、涙を浮かべて見送りに来せんでしたか?
親孝行や感謝など、人により、いろいろな表現と行動や、 方法ができると思います。

里帰りしてますか? 手紙や電話で交流してますか? 経済的余裕ができたときに、お世話になった人、家族を招待して成功している姿を見せびらかして、安心させましたか? 偽善者と言われようが、身近な人や団体に良いことしてますか?
例えば、母ちゃんが所属する、ゲートボールクラブ、老人会、町内会への寄付。

同世代の諸氏、年齢を重ねたから、人生の黄昏と思い込んで、保守的になっていませんか?。やり残したこと、あきらめていませんか? 例えば旅行。空気が薄い場所に在る遺跡。独特の宇宙観をもつ、アステカの神殿。インカ マチュピチュ遺跡,チベット、日本人シニアが 資産を使って、岩山に登山道を 作った桂林。文化遺産 富士山など、登るとキツイ。アマゾン、リオ,排気の PM25、鳥インフルエンザ,反日感情 3点セットの中国。神秘で空恐ろしい北朝鮮、その他 知的興味や、好奇心に任せて、行動するのは私には、許されます。

私の、この偏った、価値観や考えが、受け入られるとは、思っていません。充分承知しております。非建設的な批判は控えてチョ。小心者だけん傷つく。

1970-80年代の皆さま、短期、中期、長期的に見て多少の差があれど。恵まれた方、得をされた方、そして、困難な時期を経験されたもおられるとおもいます。しかし、前向きで、はやりの、草も吸わず、真面目に努力してこられたのではないでしようか?

私の、パートナーの女性は、安給料の代名詞、LA DOWNTOWNのガーメント地区の、縫製工から、アメリカ生活をスタート。そして住友銀行の窓口、夜は赤坂飯店だったか中国料理店。(小東京にある二階)で案内係、その後少し頭を使う、日本興行銀行の事務員。その後、鉄を扱う商社で長くお勤め。おおくの同年代の奥様や女性にとって、当然で、疑問ももたず、特別なことでないと、おもいますが、フルで働き、家事、子供学校送迎。一人で二役、三役していました。この女性は一緒に頑張って人生を切り開きた、同志みたいな存在です。悪いことできんばい。わからん様にせんと。

#122

120は現在、過去、未来が一緒になっていてつかみどころがない。

#121

ぶらじる丸さん

文章を書くときに「、」が多すぎると読みにくいので注意されたほうがいいと思います。
いらないところにも「、」がいっぱいついています。

ご注意あれ。

#123

#121 さん、私もその傾向がありますね。でも句読点が全然ないのも読みにくいもので、その中間ってぇところが非常に難しい。私は西村京太郎の小説を読んで参考にしました。彼の文章は思ったより多く入っています。

#124

1971年夏、最初のLas Vegas

あのNew York Hotelにいた老人(?年金生活者)Tomさんが『ミーがユウ達をべガスにテイクしてやる』と誘われ、初めてLas Vegasへ彼のオンボロFordで行った。

深夜出発でべガスには日の出後にそのDownTownへ到着する。 朝方であったこととMainのStrip通りではなかったので、その街並みは予想に反して寂れたような印象があった。

『べガスはノースリープだからホテルはノーニードね』とあの二世独特(実際は一世か)の日英語チャンポンのアドバイスが懐かしい。

ナケナケの$20札を握りして一晩過ごしたのは今では信じられな
い。
この老人は極めてタフで片道5時間の往復を一人で運転したが、その往路の初めて見る砂漠の連続する景色にも感動したのである。

Tomさんだけでなく、New York Hotelで時間を持て余していたような諸先輩から聞かされたその体験談はそれぞれ感動的で又感無量であった。 :-)

#125

私の乗船したアルゼンチナ丸が最後の移民船と聞いていましたが、実際は72年まで継続したんですね。

ウィキペディアよりの情報:

1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立され、「あるぜんちな丸」を含む5隻の移住船は新会社に移籍した上で、大阪商船の裸用船として南米航路に就航し続けた。

ところが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを過ぎると移民の退潮は一層大きくなって年間1,000名を下回るようになり、「あるぜんちな丸」の船客定員は1965年(昭和40年)以降半減され、航海回数も年3回と削減された。
運航形態そのものもクルーズ客船のはしりのような感じとなって移民から大きく離れていくこととなったが依然として収入は上がらず、親会社の大阪商船三井船舶に用船に出されて船客スペースのみを商船三井客船が販売するという有様であった。
1972年(昭和47年)、「あるぜんちな丸」は「にっぽん丸(初代)」と改名して引き続きクルーズ客船として運航され、1976年(昭和51年)12月10日に売却されて台湾に回航され、高雄で解体された。

#126

chichi123さん、
そうですね、私も砂漠の風景は感激しました。
夜みると気味の悪いジョシュアツリーや、映画で見た
西部劇を堪能させる風景ですよね。

ところで、数年前に甥っ子とその友人2人が大学の
卒業旅行で来たので、LVまで車で連れて
いったのですよ。そして、途中で
丁度、夕日の見られる時間になり車の中で、
“どう、日本では見られない風景でしょ”
と後ろの座席を振り返ったらなんと
ピコピコとゲームをしてるじゃないですか。
お返事は“うーんそうだね”と生返事。
そのくせ、アウトレットでは安いといって
山のようにお買い物。おまけに言ったことが
“おばちゃん、アメリカはブランド物が安くていいね”
でした。

いまどきの子は、あの風景に感激しないのでしょうかねえ?

トピずれごめんなさい。

#127

#126 無関係さん
あははと笑っちゃいました。良くわかります、その気持ち。
そして似た様な話、何度か聞きました。
今の子ってなんで、ああなんでしようかね。
私と子供が、何処かにいくと、どちらが子供か親かと言う状態になる事が多々あります。
親の方が興奮したり感激したり「ほら、見て、見て!」娘はTextに夢中かゲーム、あるいは寝ている。
知人は、日本から大奮発して、中学生の息子達を観光旅行に連れて来たはいいけど、さぞかし喜ぶだろうと言う場所に張り切って連れて行ってあげても、目を輝かせてるのは自分で、息子達は何処へ行っても無反応状態、Coolと言うか冷めているというか。彼は、ついにブチ切れたそうです。「もう2度と連れて来てやんねえぞ」と。

#128

#126 #127

まさに最近のIT文化の功罪ですね。:-)

我々も気を付けなければならないとも思いますが、サイバーと現実世界が混同、混乱して『一番安易な気持ちいい世界』への逃避しないように。。。。。*!*

男が女を求めず、車にも興味なく、一生懸命汗をかく事を『グサイ』とする雰囲気は何故か危険なニオイがする。 !^)

#129

追伸2:

悟り世代?

今の流行語だそうです。

iPhoneでの情報で十分と達観している若者達のことを形容していますね。

#131

71年前後のヒッチハイク

アメリカ上陸の前に1カ月半かけて夏の北海道一周のハッチハイクしました。
当時はカニ族と呼ばれるブームがあり、線路伝いに蟹のように見えたヒッチハイクの一団ニックネームでした。『北の国から』はずって後のことです。
岐阜から始めて名古屋、東京の大都市を通り過ぎるのには一苦労したことは今でも覚えています。 青森函館間も無銭乗車(長距離トラックに乗っけて貰った)含め往復の旅程では一切公的交通機関は利用しなかった。(北上するにつけ、人の温かさが増したことも鮮明に記憶しています。)
北海道では牧場、漁港での一宿一飯のお返しに重労働も良い思い出です。

そのヒッチハイクでは良い思い出ばかりで何の障害もなく、その旅を完了したことが自信につながりましたね。 確か1万五千円を懐にしたと記憶しています。
(日本では特にトラックの運転手が大変ヒッチハイクに対して良い印象を持っていたのでしょうね。*又は退屈しのぎに乗っけてくれたのか?も知れません)

71年春から72年暮れまで全米内の旅行はすべてヒッチハイクでしたけれど、難なくスムーズに車を確保出来たが、、、
Easy riderの映画を見るの、南部方面は本当はヤバかったかも?

LA市内(Northridgeに大半滞在した)特に英会話の実地勉強で色々なキャンパスめぐりでも全く問題はなかった。
(当時はギターをぶら下げていたことも有利であったかも???)

そして、ティファナ経由で南米放浪開始したのである。4カ月半ほど中南米を旅したのではあるが、やはり大部分が交通量も少なく、Local bus等は極めて安価であったので、半分位はそれらを利用した。

しかし、中南米のどの国の人々も日本人に対して好印象をもっており、圧倒的に貧しい方々と接したわけですが、本当に親切にされたのを忘れられません。:-)

#132

マタマタ脇道へ、、、、

ビートルズから始まった、、、

海外への夢が膨れ上がったのがBeatlesでした。

岐阜の田舎でその世界に触れたのが外に飛び出したきっかけでしたね。 アメリカ上陸後もBeatlesの音楽が外国人との接触に大きく役に立ったのは事実で、また下手糞なギターと音痴でヘンテコリンなアクセントの歌が珍しかったのでしょう。。。。

ニコニコ動画でその世界が再現されています。 (注:#1と#2があります)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm10303210?ref=search_tag_video

その後Englandにも長期滞在しましたけれど、71年の最初の青い空の下でのUCLAキャンパスでの思い出は鮮明です。。。。:-)

#133

この落書きからか? 40数年前に知り合ったShigeさんから連絡があった。

Shigeさんには日系人収容所跡へ連れて行った貰いましたが、その時は砂漠の中に何もない場所で、そんな場所にカリフォルニア近郊から全日系人を集め前の大戦中の間、全財産を失くした日本人が集められたのである。

Shigeさんは農業移民で一生懸命働いたものを全て失くしたとのことでした。

その時代収容所に集められた日本人がどんな気持ちでスゴシタのか?とても理解することは出来なかった。

その収容所内でも勝ち組負け組の軋轢が日本人間でもあったとか?(特に、放浪中の中南米の日系人にはこの勝ち組負け組が色濃く残っていた。)

マンザナール収容所の情報は下記参照
http://explorer.road.jp/us/ca/easternsierra/manzanar.shtml

ShigeさんはEastLAの老人ホームに居て、お歳の割には元気で会話も難なく出来る状態でしたので、小一時間またまた当時の話を聞かされました。

日本の老人ホームは知らないが、訪問したホームは予想したよりも遥かに綺麗であったのが幸いでした。。。 !*;)

#134

ご無沙汰でした。 :-)

大好きなビートルズのアンプラグ版をYoutubeでみつけました。

http://www.youtube.com/watch?v=bH78eeuy4Bs

こんなアコスティックな音源は雲の上の存在でなく、距離を近く感じます。 でもほんと上手いですね。

アメリカ入国時とその後滞在中の記憶が蘇ってきました。

สิ้นสุดระยะเวลาสำหรับการเขียนลงเว็บ สำหรับ“ 1971年アメリカ入国 ” 
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